きみが死んだあとで

原題: Kimiga Sinda Atode

公開年

2021

上映時間

1h 20m

日本

あらすじ

2021年日本映画。三派全学連を主体とする1967年10月8日の第一次羽田闘争は、その後過激化する学生運動の端緒となったが、機動隊と激突した学生の一人、18歳の山﨑博昭が犠牲となった。彼の高校の同窓生を中心とする14人の悔恨をこめた証言を通じて熱い時代を語り継ごうとする、上巻・下巻合わせて3時間20分のドキュメンタリー映画。 『現認報告書 羽田闘争の記録』(1967年)等のドキュメンタリー作品の抜粋を含んでいる。監督は三里塚闘争の当事者に取材した『三里塚に生きる』、『三里塚のイカロス』の代島治彦。 音楽は大友良英。この映画のあらすじを読…

ネタバレ・あらすじ

山﨑博昭は、中核派・社学同・解放派からなる非共産党系の三派全学連が佐藤栄作首相の南ベトナム訪問阻止をめざして行った1967年10月8日の第一次羽田闘争の際、羽田空港に通ずる弁天橋の上で命を落とした。

機動隊の装甲車を奪った学生がひき殺したという説を警察は広めるが、死後解剖に立ち会った、博昭の兄建夫は、若い医師が「きれいな死体」と言っていたことを覚えている。

1966年、3年になった博昭のクラスは自治会祭(文化祭)の仮装行列を帰結的に反戦デモにしてしまい、加えてデモの後方の平和の鳩のハリボテを燃やし課題になる。

そして10月7日、大手前高校で博昭たちと同学年で、早稲田大学文学部に入学しノンセクトで闘争に参加した黒瀬準は中核派の終結する法政大学で、ヘルメットにゲバ棒という闘争スタイルが誕生するのを目撃する。

大手前高校同学年でやはり浪人中だった岡龍二は翌日デートの最中に山﨑の死を教わり、その日から京都大学に入って山﨑の仇を取ると思って猛勉強を始めた。

赤松栄一や、山﨑と同学年で大手前高校では真っ先に中核派に加盟した岩脇正人は、11・12第二次羽田闘争、佐世保エンタープライズ阻止闘争(1968年1月)においてそれまでになかった学生と市民の連帯を感じた。

10月8日の闘争に一市民として参加した東京大学原子核研究所助教授水戸巌は山﨑の死に衝撃を受けて、妻喜世子と共に、デモで負傷したり逮捕されたりした学生の救援活動を始めた。

しかし、たまたま山﨑が殺されたが、死ぬのは自分であったかもしれないという負い目から、その後は運動に関わっていたことそのものを人に話さなくなっていった。

一浪で大学に入った佐々木幹郎や岡龍二が死んだ山﨑のために熱烈に闘争に取り組んだのに対し、既に1年間で運動に違和感を抱いていた島元は闘争を離れていく。

末:山﨑博昭の闘ったもの 科学史を研究しながら1970年代から受験予備校の講師を続ける山本義隆は20年くらい前から予備校生が笑わなくなったと言う。

その点、クラスで一人か二人同調圧力に逆らって突出する者がいて周囲が盛り上がっていった、かつての学生運動に価値はあったと山本は考慮する。

弟の死を追悼したいと山﨑健夫が呼びかけて始まった「10・8山﨑博昭プロジェクト」は2017年8月、ベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館で『日本のベトナム反戦運動とその時代展』を開催する。

佐藤首相の南ベトナム訪問は南ベトナム民衆への敵対とアメリカの軍事侵略支持を意味した、全学連のあの日の行動は世界に日本の良心を示したという意見を述べた。

雨の降る弁天橋の上で一人の学生服姿の男(代島治彦)が山﨑博昭の大きな遺影を掲げる。

最初に検死した医師も装甲車にひかれたのではなく頭に致命傷を負ったと考えていた。

博昭は1948年11月12に高知県に生まれるが、1951年、一家は朝鮮人が多く暮らす、大阪府生野区猪飼野に引っ越す。

建夫によると、大阪の工場の倉庫番の仕事を父親が得て、倉庫の2階に一家が暮らした。

南京虫のよく出る家だった。

1952年には大阪市城東区鴫野町に転居する。

親戚の家への間借りだった。

父たちがしんどい仕事をこなす姿を見て、まじめに働く人が報われる世の中にしたいと博昭は思うようになる。

やがて1958年城東区茨田諸口町の市営住宅に引っ越し、家族だけで住む家をもつことができる。

その近くの公園で博昭の葬儀は行われた。

1964年4月、博昭は大阪府立大手前高校に入学する。

詩人の佐々木幹郎は隣の席の博昭が文庫本でキルケゴールを読んでいたことを思い出す。

佐々木によると「ガロ」、「少年マガジン」、「朝日ジャーナル」が彼らに人気の雑誌で回し読みをしていた。

建夫が保存する博昭の英語単語帳には「ガロ」連載の『カムイ伝』のカムイの落書きがあった。

博昭は佐々木に誘われ、社会科学研究部主催のマルクス主義研究会読書会に参加する。

博昭たちと同学年の作家三田誠広も参加していたが、友人が中核派系のテキストを読もうと言い出したのでおもしろくなくなり抜ける。

その後学校そのものに来なくなった三田が1年後戻ると、マルクス主義研究会の5人が中核派の同盟員になっていた。

大手前高校で博昭たちの2学年上で皆のあこがれの的だった赤松栄一が京都大学入学後中核派で活躍した影響だった。

しかし博昭たちと同学年の向千衣子は喫茶店で中核派学生にオルグされたが、大学に入って判断すると言って断る。

革命的共産主義者同盟が中核派と革マル派に分裂して対立していることを認識していたからだ。

だがクラス全員で校長に謝るだけで済んだ。

佐々木幹郎は学年きっての秀才の博昭がクラスをまとめたことで教師も弾圧できなかったと考慮する。

3年生の時の博昭の手帳は、彼がスケジュールをきっちりと立てて1日に6時間の勉強をしていたことを示す。

1967年4月、博昭は京都大学文学部に進む。

入学後中核派に加盟した。

東京の中核派指導部が10月8日の闘争を大規模な武力闘争にしようと目論んでいることを地方の活動家たちも感じていた。

10月8日のデモでは、先頭の学生たちが武器にするべく用意したプラカードで機動隊に襲いかかった。

機動隊は押されるが、弁天橋上に止めた装甲車でデモ隊を封じる。

博昭は黒瀬準といっしょに弁天橋手前の防衛ラインに配置されていたが、黒瀬は高校時代の物静かな秀才が戦闘的になったことに驚く。

そして博昭は前に出て行ってしまい機動隊員の警棒で殴られる。

博昭の悲報に接し、父と兄健夫が上京する。

当時の母の家計簿のメモは、博昭がつきあっていた女性から来た手紙を読んで母がショックを受けたことを伝える。

博昭の上京直前に会った女性は博昭の様子が変なことに気づいた。

親に連絡すれば博昭の死は免れたのではと彼女は後悔していた。

浪人中だった佐々木幹郎は駅の柱に貼られた夕刊で山﨑の死を知る。

浪人生たちは大手町高校社会研究部の部室に集まった。

その運動は各地に広がり普通の主婦も参加する。

同志社大学入学後佐々木幹郎は直ちにデモに参加し、警棒で乱打される。

その経験をふまえて山﨑博昭を追悼する詩「死者の鞭」を書いた。

大手前高校同学年で京都大学教育学部入学後中核派に加盟した島元恵子は10月8日のデモに参加していた一人だった。

山﨑博昭中央追悼葬で友人代表として追悼の言葉を述べた。

一方、佐々木幹郎も入学以来運動に動員され続け疲弊していく。

9月の末に立命館大学の岩脇正人と会う。

中核派の指導部に自分たちが使い捨てにされるのを感じていた二人は山﨑の一周忌をまたずに中核派をやめた。

大手前高校で山﨑たちの7年先輩で1968年10月に東大全共闘代表に就任する山本義隆は東大闘争の中で党派の対立に苦しめられる。

全共闘運動は全国の大学に拡がったが70年安保闘争は彼らの敗北に終わる。

敗北の後、党派間の内ゲバが表面化していく。

そして連合赤軍によるリンチ殺人事件が発覚。

運動の大衆的広がりはしぼんでいった。

1970年3月に岡龍二は中核派をやめ京都大学を中退する。

舞踏家になった彼は、内ゲバで殺されたり体に障害が残ったりした仲間たちの出てくる悪夢に悩まされた過去をふりかえる。

岡も佐々木幹郎も新左翼党派の組織論の限界を語る。

水戸夫妻の学生救援活動も市民の共感が薄れるのにしたがって困難になっていった。

水戸巌が反原発運動への支援を始めたことで嫌がらせを受け始めたこともあって、喜世子は双子を連れて関西に行く。

1986年12月31日、大学院の学生になった息子たちと共に巌は剣岳で遭難する。

1987年5月に3人の遺体が発見される。

遭難原因は謎で、喜世子は権力に殺されたという疑いを消すことができない。

授業で話す冗談が面白くないのではない。

一人だけ笑って浮いてしまうのを恐れいているのだ。

オープニング式典で山本義隆がスピーチをする。

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