ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK
原題: The Beatles Eight Days A Week
監督
出演
公開日
2016/9/15
レイティング
国
脚本家
キーワード
あらすじ
ビートルズの1963年から1966年の250回に及ぶコンサートを、音楽、インタビュー、エピソードを交えながら再現したファウンドフットージュのコンピレーション。…
ネタバレ・あらすじ
当初は4人組だったが、ドイツ・ハンブルクでのクラブ演奏契約にはドラムが必要だと5人目のメンバー:ピート・ベストを迎える。
二度目のハンブルクへの巡業後、リバプールでレコード店を営んでいたブライアン・エプスタインがマネージャーになる。
人気はデビュー曲『ラブ・ミー・ドゥー』に始まり、デビュー翌年に発売した『プリーズ・プリーズ・ミー』はメロディー・メーカー誌のシングル・トップ50で1位を獲得する。
『プリーズ・プリーズ・ミー』のヒットに続き、発売するシングルが連続首位を獲得することで人気は確固たるものになっていく。
しかしそんな時代背景など関係なく、自分たちの音楽を自分たちなりに表現するザ・ビートルズはさらに人気を博すようになる。
全米1位を初めて獲得したのは『抱きしめたい』で、その時メンバーはフランス公演の最中だったため、ホテルで知らせを受け狂喜乱舞したという。
映画『ビートルズがやって来るヤァ!
ヤァ!
ヤァ!
』の撮影と並行し、1日に4、5件の仕事をこなす過密スケジュールとなる。
映画のサウンドトラックは21週連続1位という記録を打ち立て、2本目の映画『ヘルプ!
4人はアイドル』の制作が決定した。
1965年、ライブ活動による音楽文化の布教が認められ大英帝国勲章(MBE)がバッキンガム宮殿にて授与された。
手に入れるには一生かかるものを2、3年で手に入れたこと、また『反逆の音楽』とされていたロックンロールが認められることなどが懸念された。
ジョンはそんな情勢を例え『ザ・ビートルズはイエス・キリストより有名だ』と発言するがアメリカのことだと誤解されバッシングを受ける。
これはフィリピンの大統領夫人であるイメルダ・マルコスの晩餐会をマネージャーのブライアンが断ったところ、ザ・ビートルズが断ったことにされた事件である。
活動の要であったライブ活動も、爆弾予告で開演時間が遅れる、公演中に爆竹が鳴らされるなど支障が出始める。
イギリス・リバプールの町で結成されたザ・ビートルズ。
クラブの演奏契約は最悪のもので、1日8時間も演奏していたこともあった。
風呂もない部屋で共に生活することで、世界中から愛されるメンバーの仲の良さが築かれたのである。
クラブ巡業をするうちに、別のバンドに所属していたリンゴ・スターに会う。
メジャーデビューに向け本格的にブライアンが売り込む中。
メンバーの脱退により現在の4人組体制になる。
ようやくメジャーデビューが決定するが、それは当時のドラムであったピート・ベストの解雇が条件であった。
彼と引き換えにリンゴ・スターが加入し、1962年、ザ・ビートルズは念願のメジャーデビューを果たす。
デビュー当時のザ・ビートルズはシンプルと言われている。
ただ演奏を楽しみ、その姿が若者たちには眩しく映った。
そして、テレビ出演によりザ・ビートルズは英国のスターとなった。
英国スターとなったザ・ビートルズの人気は凄まじく、公演チケットを求める列が2km以上になる程だった。
この時ジョン・F・ケネディの暗殺など世界各地で事件が起こり、世の中は不安定な状態となる。
ザ・ビートルズのメンバーは高みを目指し、アメリカ進出を計画する。
全米1位を獲れば怖いものはないと確信していた。
ポールの証言によると、当初は所属していたレコード会社の小ささにより大規模な発売は叶わなかった。
それが災いしなかなか曲がヒットしない。
状況が変わったのは、雑誌が彼らのことを記事に書いてからだ。
徐々に注目を集め始め、ラジオで曲が放送されるようになった。
1964年、ついにザ・ビートルズはアメリカに上陸する。
彼らの魅力の一つ、インタビューはアメリカでも見事受け入れられ若者の心を掴んだ。
コメディアンのようなユニークさと、仲の良さから醸し出されるやんちゃな雰囲気は人々を惹きつけた。
ザ・ビートルズはスケジュールが過密になってもライブに立ち続けた。
その最たる理由は、レコード契約が劣悪で儲からなかったことにある。
メンバーが活動を続けるには、レコードを発売することよりもライブチケットを売ることの方が重要だったのだ。
この後メンバーには3ヶ月の休暇が与えられた。
ポールは家族の為に家を購入し、ジョージはインド音楽に目覚めた。
ザ・ビートルズの関係性は、ずっと一緒にいる友達から仕事仲間という認識に変わりつつあった。
休暇明け、『イエスタデイ・アンド・トゥデイ』のジャケット撮影が行われた。
しかし、ポール曰く「撮影が嫌で嫌で堪らなくなっていた」と言う。
それはメンバーも同じく、撮影には身が入らなかった。
見かねたカメラマンの提案で、マッドサイエンティストという設定に急遽変更し撮影を続けた。
バラバラになった赤ん坊の人形を手にしたメンバーはその設定を気に入り上機嫌だった。
が、販売するレコード会社から苦情の声が多く寄せられ発売直前に差し替えられた。
1966年、ツアーの為デビュー前にも複数回訪れたドイツ・ハンブルクを訪れる。
休暇中ジョンが漏らした『次に何をすべきかわからない』という弱気な発言によりマスコミから敵意を向けられる。
記者会見では質問ではなく厳しい意見を向けられ、不穏な空気になる様子が映像に残っている。
末 時代はさらに混沌を極め、イギリスではキリスト教の信者が減少していく。
批判の対象となった彼らは何をしてもバッシングを受ける風潮になり、フィリピン・マニラ事件が発生する。
続く東京公演でも、歴史ある武道館にはふさわしくないと右翼の攻撃を受けた。
最終的にスタジアム公演の退場時に囚人護送車に乗ることになり、車内でジョージが限界だと漏らす。
曲がり角の度に揺さぶられる車内ではメンバーも賛同し、ザ・ビートルズはレコーディングに注力するようになる。
EMIレコーディングスタジオに入り浸り、『イエローサブマリン』や『アビーロード』の制作にあたった。
この頃から個々の個性が光り始め、特にジョージ・ハリスンの曲がアルバムに採用されるようになる。
しかし、『イエローサブマリン』は1位を獲得出来ず、ザ・ビートルズの人気は終息し始める。
メンバー間の不和により解散するが、ブライアンが設立したアップル社の屋上で一度ライブを執り遂行する。
『最高のラストだ』という一言で、彼らの映画と歴史は幕を閉じる。